こんな逸話がある-と或る聖人は村人に殺害されそうになった…何故なら村人は彼の骨を村に残そうとしたからである…或いはこんな逸話もある-聖人の遺体を切断して人々は有難く持ち帰った…何故ならこの“身体の一部”には御利益があるからである。
もし自分が聖人だったらたまったものではないが、これは紛れもない、恐ろしい事実だ。
そこで、この「聖なる遺品」への信仰を繙いたのが本書であり、実に読み応えがあった。
さて、本書は「聖遺物」が何故それ程までに珍重されたのかと言う原点から始まるが、「聖遺物」はただの記念品ではなく、生前の聖人と同様に“奇跡を起こす品”であり、だからこそこの宝物を獲得する為に各教会が凌ぎを削ったのだ。
だが、だ。
聖遺物にもは「意思」があり、全てが権力者や教会の思い通りになる訳ではない…私はここに、日本の仏教説話でお馴染みの「仏像の“意思”でその場にお堂を建てた」という逸話との共通点があるように感じ、非常に面白く感じた次第である。
そして、漸く手にした貴重な宝物を厳重で美しい容器に収めようと思うのは必然であり、これが類稀なる芸術品の発展に貢献して行くのだ。
本書は豊富な図版を以て数多くの名品を紹介し、更には、聖遺物箱を作り替えた後の古い残骸にも力が備わっていると信じられた事にも言及しているので、最早「聖遺物」が一つの信仰対象として確立した歴史を理解する事が出来るであろう。
いや、それだけではない…聖遺物のお披露目に際して世界各地から集まる巡礼者目当ての商魂逞しさも凄まじく、「巡礼記念品(エウロギア)」には“聖水”、カタログ、版画、そして「巡礼記念バッジ」に至る迄…とにかく現代の美術展覧会さながらなのである。
信仰ですら利益に結びつけようとする人間の浅ましさを見せ付けられたようにも思うが、その一方で、まあ、これが現実であろう…と思うと、何やら微笑ましくもあった。
因みに、これは余談かもしれないが、聖人の遺体を収める家屋型の容器を「シュライン」と呼ぶとの事…どうやら日本の神社を“シュライン”と訳す起源もここにあったのではないかと思うと、自分なりの発見もあり、大きな収穫だったように思う。
そして最後に非常に意義深く感じられたのは、近代に於ける著名人の遺物(デューラーの遺髪やルターのデスマスク、ブラームスの遺品等)について冷静に論じた終章である。
何故ならここでは“実物”の力について考えさせてくれるからである。
私達は常に伝説や噂に惑わされてしまうが、そこにたった一つでも“実物”があれば、それは噂ではなくなり、現実となる…そして、それこそが聖遺物の役割でもあるのだ、と。
欧州の教会では様々な聖遺物を目にするが、本当の骨なのか小枝なのかも解らぬ品、顕微鏡を使わなければ解らない程の繊維等もあり、つい「本物?」と疑ってしまう方もいるであろう…だが「今、目の前に、聖人の遺品がある」…そう信じる事が重要なのかもしれない。
簡易な文庫本ではあったが、永久保存版にしたい名著である。
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聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形 (講談社選書メチエ 441) 単行本 – 2009/6/11
秋山 聰
(著)
キリスト教美術の誕生につながる中世の熱狂 聖人の遺体や聖人が接触した「聖遺物」を求めて略奪・奪還が繰り広げられる中から、免罪を求める民衆への呈示のために教会建築や絵画が洗練されていく過程を追う
- 本の長さ262ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2009/6/11
- ISBN-104062584417
- ISBN-13978-4062584418
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2009/6/11)
- 発売日 : 2009/6/11
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 262ページ
- ISBN-10 : 4062584417
- ISBN-13 : 978-4062584418
- Amazon 売れ筋ランキング: - 752,773位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2018年11月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
聖遺物とはキリストや聖母、あるいは諸聖人や殉教者の遺物のこと、遺体、遺骨、衣服はもちろん、成人が触れた様々なものが含まれる。
著者も序文で書いているが、ヨーロッパの古い教会や大聖堂の付属博物館に行くと、必ずと言っていいほど金や銀でできた容器やガラス容器をはめ込んだ金銀細工の聖遺物入れがあり、よく見るとガラス容器の内部に小さな骨などが入っていたりする。実はこれが金銀宝石よりも貴重なものとして扱われた聖遺物である。もちろん、キリストの架けられた十字架だの聖母の衣服だのが本物である保証はないし、聖人の遺骨が奇跡を起こすと言われても現代人にはピンとこないが、中世ヨーロッパの人たちは王侯貴族を先頭に聖遺物に熱狂し、教会設立には必ず何らかの聖遺物が必要だったという。
そう言えば、ケン・フォレットの『大聖堂』には修道院の宝であった聖人の骨が焼失したのを隠して、聖遺物がないと巡礼者や礼拝者が来なくなると危惧して偽造する場面があった。
ワーグナーの楽劇「パルジファル」もキリストの血を受けた「聖杯」をめぐる物語が展開するが、この「聖杯」ももちろん聖遺物である。
さらに、現代人もまた著名な芸術家や偉人の足跡をたどり、博物館に展示されたデスマスクや遺品を見て感動するわけだから、その心性は中世の人々の聖遺物への熱狂とそう遠く離れたものではない。例えば、中世盛んに行われた聖遺物展示会に来た観客のためのガイドブックなどは現代の美術展ガイドと基本は同じである。グーテンベルクの活版印刷術は聖遺物ガイド本のために発明されたというのもありそうなことに思える。
この著作にはそうした聖遺物をめぐる驚くべき事実が多数紹介されているし、アルブレヒト・デューラーの正面を向いた自画像とデューラーの本物の遺髪を並べると実物の力で迫真的な効果が得られるという興味深い考察も加えられている。
ただ、聖遺物崇拝に対する偶像崇拝であるとの批判や宗教改革以降聖遺物崇拝が廃れた事情について、もう少し詳しく紹介してほしかった。
著者も序文で書いているが、ヨーロッパの古い教会や大聖堂の付属博物館に行くと、必ずと言っていいほど金や銀でできた容器やガラス容器をはめ込んだ金銀細工の聖遺物入れがあり、よく見るとガラス容器の内部に小さな骨などが入っていたりする。実はこれが金銀宝石よりも貴重なものとして扱われた聖遺物である。もちろん、キリストの架けられた十字架だの聖母の衣服だのが本物である保証はないし、聖人の遺骨が奇跡を起こすと言われても現代人にはピンとこないが、中世ヨーロッパの人たちは王侯貴族を先頭に聖遺物に熱狂し、教会設立には必ず何らかの聖遺物が必要だったという。
そう言えば、ケン・フォレットの『大聖堂』には修道院の宝であった聖人の骨が焼失したのを隠して、聖遺物がないと巡礼者や礼拝者が来なくなると危惧して偽造する場面があった。
ワーグナーの楽劇「パルジファル」もキリストの血を受けた「聖杯」をめぐる物語が展開するが、この「聖杯」ももちろん聖遺物である。
さらに、現代人もまた著名な芸術家や偉人の足跡をたどり、博物館に展示されたデスマスクや遺品を見て感動するわけだから、その心性は中世の人々の聖遺物への熱狂とそう遠く離れたものではない。例えば、中世盛んに行われた聖遺物展示会に来た観客のためのガイドブックなどは現代の美術展ガイドと基本は同じである。グーテンベルクの活版印刷術は聖遺物ガイド本のために発明されたというのもありそうなことに思える。
この著作にはそうした聖遺物をめぐる驚くべき事実が多数紹介されているし、アルブレヒト・デューラーの正面を向いた自画像とデューラーの本物の遺髪を並べると実物の力で迫真的な効果が得られるという興味深い考察も加えられている。
ただ、聖遺物崇拝に対する偶像崇拝であるとの批判や宗教改革以降聖遺物崇拝が廃れた事情について、もう少し詳しく紹介してほしかった。
2019年3月15日に日本でレビュー済み
「聖なる人(キリストや聖人ら)」の遺体や遺品(「生前触れた」だけのものも含む)などと伝えられる「聖遺物」。中世ヨーロッパの「キリスト教社会」では、それらの「聖遺物」からは、「特別な力(=主に、奇跡(病の治癒など)と贖宥(天国へ行けるように、現世の罪を免罪すること)による救済)」が発散される、とみなされていた。本書では、その「聖遺物」に対する信者たちの「熱狂」と、“信仰心を喚起する”ために「熱狂」を盛り上げようと創意工夫をこらす聖職者たちの試みが「芸術へと昇華される過程」が考察されていて、非常に面白い文化論になっている。
キリスト教(主にカトリック。プロテスタントは、基本的に「聖人崇敬」はしない)の「聖なる人」には、“聖性のランク”がある。キリスト>聖家族(マリア・ヨセフなど)>使徒(キリストの12人の弟子とパウロなどの特別な宣教者)>聖人(殉教者や聖職者や信徒の中でも、優れて信仰心が篤く、霊験を示したり、キリスト教に対する貢献度が極めて高い人物)、というのが、おおよその順位である。とはいえ、“聖性のランク”に応じて人気が変わるというわけではない。「聖なる人」には、それぞれに独自の魅力がある。例えば、「聖人」に対しては、自分たちと同じく“そもそもは人間”であったということで、“神の子イエス・キリスト”よりも、“親しみやすさ(=人間の弱さを知っている聖人たちは、自分たちが天国に行けるように、イエス様にとりなしてくれるだろう)”を、中世の人々に感じさせた。
そのような「聖なる人」の「物語」を説明するために、カトリック教会は、「聖遺物」を大勢の信者が「展観」できるように教会建築の設計を変更し、「聖遺物」の周囲に絵画や彫刻作品を配置し、宝石や黄金などの高価な材料を使って「聖遺物を納める容器」をデザインした。そして時代が下るにしたがって、信者たちは「聖遺物崇敬」をしながらも、「聖遺物」を飾る作品に、美的(芸術的)な興味を抱き始めた。こうしたことから、絵や彫刻などの作品制作者が“芸術家”として尊敬されるようになっていった。しかし、また一方で、華美に飾られていく教会は、“キリスト教的禁欲”の理念から乖離しているとして「宗教改革者(ルターなどの、プロテスタント)」たちからの批判の対象になった(宗教改革期には、一部の地域で“聖像破壊運動”が起こるほどの反発を引き起こした)。
この本では、さまざまな「聖遺物容器」の図版を掲載しながら、教会がなぜ「容器」の「造形イメージ」作成に力を注いだのかが説明されている。
「聖遺物」は、一応は「さまざまな奇跡を起こしたり、芳しい香りを発したり、腐敗しない」と、いうことになっていた。しかし、実際は「そのような超常現象を起こすことが(常に)できていたわけではない」。それどころか、「外見上はどこの馬の骨とも路傍の石とも襤褸くずとも見分けがつかないもの」が大半であった。とはいえ、“キリスト教的な禁欲の価値観”で見れば、「貧弱で粗末」な“外見”は高貴な“内面”とは別物、ということになる。見た目が「何の変哲もない骨片や襤褸くず」であっても、「聖性」は損なわれないのだ。「一般的に高い価値が認められる黄金や宝石への蔑視や、一般にはどこの馬の骨とも区別がつかない骨片を黄金より尊ぶのも、(華麗を好むローマ帝国の)既成の価値のヒエラルキーを転覆させようとする初期キリスト教のラディカルな姿勢の表れの一つであった。ところが、時代が下るにつれ、「黄金よりも価値がある」聖遺物の価値を万民に伝達するためには、黄金の力を借りることが不可欠、というさらに逆説的な状況が生まれるようになる」。
「聖遺物容器」のいろいろな「造形」は、信者に“「聖なる人」の存在を感じさせる”ために、聖職者や画工や職人がさまざまに考えて生み出したものだった。信者が“信仰心”をこめて「聖遺物」を見つめることによって「聖なる人」から“霊的な力を受け取っている”と思えるような“イリュージョン”を演出することに、聖職者たちは腐心したのであった。
このような芸術的なジャンル以外の、多彩な事柄にも、この本は触れている。例えば、「聖遺物」の“「展観」イベント=「聖遺物」の御開帳や「聖体行列」などの宗教的祝祭”に訪れる「膨大な数の巡礼」たちが、その教会のある都市にもたらす経済効果だったり、印刷術のイノベーション(グーテンベルクは、巡礼記念バッジの制作のため、金属加工に取り組む過程で、金属活字発明のヒントを得たと推測されている)が生まれたことなど、興味深い事例がたくさん挙げられている。キリスト教の宗教美術を鑑賞するためだけでなく、中世ヨーロッパの文化を理解する一助となる本。
キリスト教(主にカトリック。プロテスタントは、基本的に「聖人崇敬」はしない)の「聖なる人」には、“聖性のランク”がある。キリスト>聖家族(マリア・ヨセフなど)>使徒(キリストの12人の弟子とパウロなどの特別な宣教者)>聖人(殉教者や聖職者や信徒の中でも、優れて信仰心が篤く、霊験を示したり、キリスト教に対する貢献度が極めて高い人物)、というのが、おおよその順位である。とはいえ、“聖性のランク”に応じて人気が変わるというわけではない。「聖なる人」には、それぞれに独自の魅力がある。例えば、「聖人」に対しては、自分たちと同じく“そもそもは人間”であったということで、“神の子イエス・キリスト”よりも、“親しみやすさ(=人間の弱さを知っている聖人たちは、自分たちが天国に行けるように、イエス様にとりなしてくれるだろう)”を、中世の人々に感じさせた。
そのような「聖なる人」の「物語」を説明するために、カトリック教会は、「聖遺物」を大勢の信者が「展観」できるように教会建築の設計を変更し、「聖遺物」の周囲に絵画や彫刻作品を配置し、宝石や黄金などの高価な材料を使って「聖遺物を納める容器」をデザインした。そして時代が下るにしたがって、信者たちは「聖遺物崇敬」をしながらも、「聖遺物」を飾る作品に、美的(芸術的)な興味を抱き始めた。こうしたことから、絵や彫刻などの作品制作者が“芸術家”として尊敬されるようになっていった。しかし、また一方で、華美に飾られていく教会は、“キリスト教的禁欲”の理念から乖離しているとして「宗教改革者(ルターなどの、プロテスタント)」たちからの批判の対象になった(宗教改革期には、一部の地域で“聖像破壊運動”が起こるほどの反発を引き起こした)。
この本では、さまざまな「聖遺物容器」の図版を掲載しながら、教会がなぜ「容器」の「造形イメージ」作成に力を注いだのかが説明されている。
「聖遺物」は、一応は「さまざまな奇跡を起こしたり、芳しい香りを発したり、腐敗しない」と、いうことになっていた。しかし、実際は「そのような超常現象を起こすことが(常に)できていたわけではない」。それどころか、「外見上はどこの馬の骨とも路傍の石とも襤褸くずとも見分けがつかないもの」が大半であった。とはいえ、“キリスト教的な禁欲の価値観”で見れば、「貧弱で粗末」な“外見”は高貴な“内面”とは別物、ということになる。見た目が「何の変哲もない骨片や襤褸くず」であっても、「聖性」は損なわれないのだ。「一般的に高い価値が認められる黄金や宝石への蔑視や、一般にはどこの馬の骨とも区別がつかない骨片を黄金より尊ぶのも、(華麗を好むローマ帝国の)既成の価値のヒエラルキーを転覆させようとする初期キリスト教のラディカルな姿勢の表れの一つであった。ところが、時代が下るにつれ、「黄金よりも価値がある」聖遺物の価値を万民に伝達するためには、黄金の力を借りることが不可欠、というさらに逆説的な状況が生まれるようになる」。
「聖遺物容器」のいろいろな「造形」は、信者に“「聖なる人」の存在を感じさせる”ために、聖職者や画工や職人がさまざまに考えて生み出したものだった。信者が“信仰心”をこめて「聖遺物」を見つめることによって「聖なる人」から“霊的な力を受け取っている”と思えるような“イリュージョン”を演出することに、聖職者たちは腐心したのであった。
このような芸術的なジャンル以外の、多彩な事柄にも、この本は触れている。例えば、「聖遺物」の“「展観」イベント=「聖遺物」の御開帳や「聖体行列」などの宗教的祝祭”に訪れる「膨大な数の巡礼」たちが、その教会のある都市にもたらす経済効果だったり、印刷術のイノベーション(グーテンベルクは、巡礼記念バッジの制作のため、金属加工に取り組む過程で、金属活字発明のヒントを得たと推測されている)が生まれたことなど、興味深い事例がたくさん挙げられている。キリスト教の宗教美術を鑑賞するためだけでなく、中世ヨーロッパの文化を理解する一助となる本。
2010年10月9日に日本でレビュー済み
面白い研究です。東方教会との比較、蒐集と展示の歴史、複製をめぐる諸問題等々に連想が拡がりますし、仏教における類似現象(仏舎利など)も気になります。それにしてもキリスト教のこのような側面は、信徒でなければほとんど悪趣味と言うべきですが、高尚な神学やら芸術にもまして当の宗教の性格を規定しているわけですから、しっかり向き合う必要があります。本書はその機縁をもたらすに充分な情報を具えています。下半身の開口部はまことに饒舌です。
イスラームから見るとキリスト教は多神教と映るそうですが、ある意味そのとおり。「不合理ゆえにわれ信ず」の宗教ですから、矛盾や逆説など意に介さない豪胆さ、泥臭さ、野性味があって、それは近代以前にあってはむしろ力の源泉だった節があり、その芸術についても同断です。ヨーロッパ近代主義に染まりすぎた宗教観・芸術観―それを欧米人以上に倒錯的に内面化しているのが日本の学者です―を解毒する仕事は歴史学の大きな使命でしょう。著者の意図とは関係なく、そんなことも考えさせる本です。
文献目録にあるピーター・ブラウン『聖人崇敬』、どなたか訳す人はいないのですか。
イスラームから見るとキリスト教は多神教と映るそうですが、ある意味そのとおり。「不合理ゆえにわれ信ず」の宗教ですから、矛盾や逆説など意に介さない豪胆さ、泥臭さ、野性味があって、それは近代以前にあってはむしろ力の源泉だった節があり、その芸術についても同断です。ヨーロッパ近代主義に染まりすぎた宗教観・芸術観―それを欧米人以上に倒錯的に内面化しているのが日本の学者です―を解毒する仕事は歴史学の大きな使命でしょう。著者の意図とは関係なく、そんなことも考えさせる本です。
文献目録にあるピーター・ブラウン『聖人崇敬』、どなたか訳す人はいないのですか。
2017年11月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ローマの教会で、ザビエルの腕が見事な宝石に飾られた箱に飾られているのを見て衝撃でした。舎利塔にしてもお釈迦様の骨をおさめる塔だし、人は教えだけでなく、ゆかりのものを崇めたいという気持ちがやまないのですね。本書はキリスト教についての事例を多くあげてあり、興味深かったです。